ツナワタリマイライフ

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"すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論" を読んだ

はじめに

読んだ。

学校教育が国民に「我慢こそ美徳」を強いて、自ら行動せずブレーキを踏む教育、本書で言う「洗脳」をしてきた。その結果「したいことがあるけどできない」人間が増えている。それは全て学校の洗脳のせいだから今からでも自分のやりたいことだけをやりなさい。

これが本書の主張だと思う。

内容自体はそんなもんなんだけど、ちょっと自分とも照らし合わせて考えたいのでブログを書くことにした。

学校教育と「常識」を考える

ここで簡単に「知識」と「常識」の違いについて触れておこう。(略)常識とは「解釈」である。主観の入りまくった、その時代、その国、その組織でしか通用しない決まりごと。それが常識である。(p20)

そして学校は常識を植え付ける場所である、それが洗脳であるという主張だ。

僕はこの文章を読んで、学校が常識を植え付けるとともに国民をふにゃふにゃにして国家最高仲間最高にする、従順に何でも目上のひとに従うようにする、そういう意味で洗脳している、とまでは思わない。

ただ、「常識」という言葉については中学時代、高校時代にひどく疑ったことをよく覚えているのでここで語りたい。

「常識で考えろ」と怒られたことがあった。そのときは、何も言ってないなと思ったし、それが我々が知るべきことだとしたら、それを教えるのが教員なんじゃないの、教員の役目でないとしたら家庭なんじゃないの、そもそも常識ってなんだよ、(世の)常が識別している事柄ってなんだよ、誰が決めるんだ、誰が定義するんだ、どうやって決めるんだ、どうやって知るんだ、って。高校時代かな。怒りとともに考えた覚えがあります。

常識という言葉が僕に通じなかったし、常識という言葉に猛烈に違和感を抱いた。この感覚は今でもある。

常識を教えるときに、常識という言葉を使ってはいけないと僕は思う。

常識がなくても(あえて常識という言葉を使っています)いいとは僕も思わない。ここで使う常識は、おおよそ「マナー」に分類されるかもしれないし、「教養」と語られるかもしれない。「常識」は概念であり、おそらく都合良くしか使われていない。「常識がない!」はもう1歩踏み込んで言わないと「俺が不愉快」「みんなやってるからやれ」「いいから言うことを聞け」と言っているようにしか思えない。

「常識」は「常識」という言葉以外で説明することができるんじゃないか。マナー、法律、文化、、、そこまで落とし込めば「そうする必要性はないけれど、この社会ではこうするひとが大半で、特に何も考えずにそうしている。君がどうしても受け入れられないならそれは構わないけれど、いったん習ってみてはどうだろうか」という風に言えるだろうし、おそらく常識を課すシーンってマナーあるいは犯罪にあたるシーンなんじゃないだろうか。

「ひとが話しているときに遮る」ことを「常識がない」と言うこともできるだろうし、送ったメールに返事をしないひとに「常識がない」と言うこともできるだろう。だけどそれを常識として相手を攻めてどうなるんだろうか。

そもそも文化的に解釈が異なったりする、すなわち生活してきた社会の習慣の積み重ねが「常識」にすぎず、先の引用にある通り時代によって変わるもので、常識そのものは中身がない。

だから、「ウチの後輩常識なくてさぁ〜」という話には「どこがどうダメなの?」「そのダメなところを教えてあげなきゃ」「どうしても無理なら切るしか」の3つにしかならない。まぁ、常識を攻撃する意味は、まったくないのだ。常識がないと感じるそのポイント、あるいは共通する考え方を教えてあげないとな、と思う。

結論として、僕は学校が常識という名の「従順」を植え付けるために学校があるとまでは思わない(これは現場の教員の話も聞いてみたい)が、常識という言葉は嫌いだし、疑うべきだという点では同意しました。

学びとは没頭である

「学び」を楽しんでる人は違う。没頭している人にとっては、正解が見つからないことも、自ら動かなければ取り組むべき課題が見つからないことも、没頭する対象がある限りすべては「楽しい」ことだ。だから、彼は暗中模索を繰り返す。つまり没頭は、人を決して立ち止まらせないのだ (p89)

この章で著者は「やりたいことが見つからない」「やってはみたけど没頭できない」「収益化できない」というひとに対して、自分がやりたいことをやれと返していて、イマイチ本質的な回答になっていない、あるいは根拠に乏しいと感じる。

自身のインターネット黎明期に遊んだ経験が、楽しいと遊んだ経験があとに生きた、だから売れる売れない稼げる稼げない考えずとにかく没頭するんだ、という意見は、正しいと思う。しかし、「楽しいことやるんだよ」が、洗脳を浴びてきた「でも。。。」のひとに届くかというと、これでは届かないと思う。

僕自身はやりたいことを自覚的にやっているものの、真にやりたいこと - かどうかは自分で決めるので何とも言い難いが - というより、大きな変更を伴うことは行ってきていない。教育を受けてきた通りの、義務教育、大学、就職というコースを選んでいるので、おそらく対象読者であると思う。

そもそも、好きなことがないひとは、本当に好きなことがないのだろうか。

好きなことを探す力、何かにワクワクする感覚、好き・やりたいを自覚する力、もしそれそのものが低下しているとすれば。それがブレーキを踏んだ状態であり、本書でいう学校教育の洗脳を受けた状態だとしたら、やはり前提を文章で説いたとしても、「やりたいことをやれ」は効果的ではない。

具体的に落とすならば、「考えるより先に行動する」「publicな場所におく(公開する)」「考えたことを文章化する」あたりを届けてみたい。

行動できるならそれはもちろんしたほうがいいし、ひとの目に触れるということは、ひとの目に触れられる状態に具現化するということだし、3つめはまさに具現化すること。

おそらくやりたいことをやるにも訓練が必要なんだと思う。

自分自身が何をやりたいかなんて、なかなかわかりはしない。

そのための基礎トレーニングとして、僕なら考えたことを文章化することを勧める。文章化すれば、その時その瞬間において、そしてそのコミュニティにおいて、1つの事実として絶対化される。(解釈の余地は当然残りつつも)考えたことがある言葉として絶対化された場合、それを仮説として次の考えにいける、あるいはそれは考え終わったこととして、次の考えにいける。このプロセスが、次々に考えることができ、その結果自分が真にやりたいことを見つける確率をあげるのだと思う。

自分1人で、じっくり考える。よく、自分と向き合う、なんて言うけれど、考えていることを考える。文章にしながら考える。あれでもない、これでもない、ちょっと違うかも、うまく言えてないかも、それでもいい、そのときその瞬間の言葉として絶対化すれば、あるいは別の言葉で言えば現時点での言葉として「有限化」すれば、少しずつ整理されていくはず。

このプロセスを取らずに単にぼんやりと「ああ会社やめたい」「ああ学校行きたくない」「ああ有名になりたい」と考えるだけじゃ、何も変わりはしないと思う。

僕なら、堀江さんに変わって、自分でブレーキを踏んでいるひとには上記のことを伝えたいと思った。

おわりに

思いの外長くなってしいまった。本書の主張の批判や、解釈というよりは、本書の内容をヒントに、自分の考えを深める記事にした。

僕も常にうつりかわるやりたいことをどう捕まえて、どう自分のものにして、どう吐き出すか常に模索中で、上の言葉は自分の経験から書いた。最近あまり文章を書いたり、じっくり考え抜く時間が減ってきたので、また意識的に増やしていこうと思う。