ツナワタリマイライフ

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「イシューからはじめよ」を読んだ

はじめに

読んだ。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

評判もよかったということもあって、年始に読みました。が、ブログにあらためてアウトプットする時間が全然ないので読書メモという形で今回は記してクローズする。

読書メーターでの私の感想は以下。

各所で評判が良かったので読んでみたが、その通り良書でした。サイエンスとコンサルタント両方の経験がある筆者だから書ける考え方で、特に「分析」とは何で、どう見せるのか、という点についてはビジネスパーソンだけでなく、大学生/大学院生も読むべきだと思った。読み返して自分の仕事にどう当てはめることができるか再確認する。

bookmeter.com

以降はkindleのハイライトを順に追っていく。便利だなあ。物理本は最初からパラパラとめくって復習がしやすいけれど、特定箇所のマーキングが本に手をいれない限り難しい。逆に電子本は全体をパラパラめくるのは難しいが、ハイライトが素晴らしい。一長一短ですね。

「悩む」と「考える」の違いを意識することは、知的生産に関わる人にとってはとても重要だ。ビジネス・研究ですべきは「考える」ことであり、あくまで「答えが出る」という前提に立っていなければならない。

10分悩んでも解決しないなら1度休む。悩むことをするな、答えがある前提で答えに向かって考えろ、という最初の主張。「悩む」が自分の中で判断保留とも捉えられるので、答えを出せということですね。

それは「根性に逃げるな」ということだ。  労働時間なんてどうでもいい。価値のあるアウトプットが生まれればいいのだ。たとえ1日に5分しか働いていなくても、合意した以上のアウトプットをスケジュールどおりに、あるいはそれより前に生み出せていれば何の問題もない。

どうしようもないときは根性に逃げがち。というか、せめて根性ぐらい出さないと、という考え方をしてしまう。本当によくないので反省。

プロフェッショナルとしての働き方は、「労働時間が長いほど金をもらえる」というレイバラー、あるいはサラリーマン的な思想とは対極にある。働いた時間ではなく、「どこまで変化を起こせるか」によって対価をもらい、評価される。あるいは「どこまで意味のあるアウトプットを生み出せるか」によって存在意義が決まる。そんなプロフェッショナル的な生き方へスイッチを入れることが、高い生産性を生み出すベースになる。

労働時間ではなく、バリューで答える、バリューでのみ評価される、そんな世界は怖いけれど、そっち側にいかないといけない。

問題に立ち向かう際には、それぞれの情報について、複合的な意味合いを考え抜く必要がある。それらをしっかりつかむためには、他人からの話だけではなく、自ら現場に出向くなりして一次情報をつかむ必要がある。そして、さらに難しいのは、そうしてつかんだ情報を「自分なりに感じる」ことなのだが、この重要性について多くの本ではほとんど触れられていない。

現場がすべてっていうのはいろんなところで言われてる気もします。まずはやってみる。マネジメント、リーダーといった実作業をしていないひとたちには本当の問題が何かわかりづらい。現場のつらさを救える働き方をしたいと思う。(ちょっとそれた)

「やってみないとわからないよね」といったことは決して言わない。ここで踏ん張り切れるかどうかが、あとから大きく影響してくる。

ウッ 言いがち。。。エンジニアリング、まず実験、まず動かすというのは大事な姿勢だが、ここは知的生産の場なので、それはダメだろう。

僕が「言葉にすることを徹底しよう」「言葉に落とすことに病的なまでにこだわろう」と言うと驚く人が多い。僕は「理系的・分析的な人間」だと思われているようで、そうした僕から「言葉を大切にしよう」というセリフが出ることが意外なようだ。

言葉にすることで、それが言葉として(一旦)確定される、というのは僕も普段から意識しています。明文化する、言語化する、技術文章であれば一意に取れるようにする。現在の課題も言葉にしてこそ共有される。言葉は大切。

人間は言葉にしない限り概念をまとめることができない。「絵」や「図」はイメージをつかむためには有用だが、概念をきっちりと定義するのは言葉にしかできない技だ。言葉(数式・化学式を含む)は、少なくとも数千年にわたって人間がつくりあげ磨き込んできた、現在のところもっともバグの少ない思考の表現ツールだ。言葉を使わずして人間が明晰な思考を行うことは難しいということを、今一度強調しておきたい。

思考はどこで行うか?という話がありますが、こうやって文章にしながら思考もできますよね。言葉にすることを諦めたら本当に試合終了だと思う。

分析の大半を占める定量分析においては、比較というものは3つの種類しかない。表現方法はたくさんあるが、その背後にある分析的な考え方は3つなのだ。このことを押さえておくだけで分析の設計がぐっとラクになる。では、この3つの型とは何だかわかるだろうか? 答えは次のようなものだ。  1 比較  2 構成  3 変化  どれほど目新しい分析表現といえども、実際にはこの3つの表現のバラエティ、および組み合わせに過ぎない

後半は分析方法について。「何がイシューなのか」を考え抜いて定めた上で、そのイシューをどう解決すべきかをデータを使って説得する、知的生産はこのシンプルな方法で行うという話でしたね。

脳は「異質な差分」を強調して情報処理するように進化してきており、これは脳における知覚を考える際の根源的な原理のひとつだ。そしてこれが、分析の設計において明確な対比が必要な理由でもある。明確な対比で差分を明確にすればするほど脳の認知の度合いは高まる。そう、分析の本質が比較というよりは、実は私たちの脳にとって認知を高める方法が比較なのだ。そして、私たちはこれを「分析的な思考」と呼んでいる。

分析とは何か?に着目したときに、必ず比較が必要ということですね。どちらかというと、ひとが「わかる」ために比較が必要、という話を聞いたことがあります。比較というか、自分が今まで経験して、知っていることと結びつけて理解するという話。それに少し近いのかな。

分析イメージを設計する際(第4章で詳説)には、同じような分析の型が続かないようにすることが重要だ。私たちの脳は異質な差分しか認識しないため、同じかたちのグラフやチャートが続くと、2枚目以降に関しては認知する能力が格段に落ちる。同じかたちが3枚続けば大きなインパクトを与えることは相当難しくなる。チャートの表現レパートリーは多くもち、極力同じかたちが続かないように工夫する。

ストーリーとしての、分析の続け方も、同じ方法を極力取らないことを強調。

ここで異なる情報をもった2つ以上のニューロンが同時に興奮し、それがシナプスでシンクロ(同期)したとき、2つ以上の情報がつながったということができる。すなわち、脳神経系では「2つ以上の意味が重なりつながったとき」と「理解したとき」は本質的に区別できないのだ。これが第3の特徴、すなわち「理解するとは情報をつなぐこと」という意味だ。

さっきの理解の話はここでしたね。

何度も情報のつながりを想起せざるを得ない「なるほど!」という場面を繰り返し経験していると、その情報を忘れなくなる。当たり前のように思えるが、これは日常ではあまり意識されていない。

これのもっと激しいのが「そういうことだったのか!」ってやつ。すっげー気持ちいいよね。

このようなカギとなるサブイシューを検証する場合は、どちらに転ぼうと意味合いが明確になるタイプの検証を試みるようにする。答えを出そうとしている論点を明確に認識し、右なのか左なのか、それに答えを出すのだ。

どっちに転んでも有益なイシューを選ぶこと。意識したことなかった。「できないということがわかった」ってやつだよね。

(自分の知識や技では埒が明かないときにどうするか?) もっとも簡単なのは「人に聞きまくる」ことだ。格好よく言えば「他力を活用する」わけだ。それなりの経験ある人に話を聞けば、かなりの確率で打開策の知恵やアイデアをもっているものだ。運がよければ同様のトラブル時にどのようにして回避したかを教えてもらえることもあるし、通常では手に入らない情報の入手法を聞けることもある。自分の手がける問題について、「聞きまくれる相手」がいる、というのはスキルの一部だ。自分独自のネットワークをもっているのは素晴らしいことだし、直接的には知らない人からもストーリーぐらいは聞けることが多い。

人に聞ける、人を頼れるのってかなり重要なスキルで、僕はこれが苦手だと自覚しています。聞きまくれる後輩くんうらやましい。。。

(リチャード・ファインマンについて) 「いわゆる天才とは次のような一連の資質を持った人間だとわしは思うね。  ●仲間の圧力に左右されない。  ●問題の本質が何であるかをいつも見失わず、希望的観測に頼ることが少ない。  ●ものごとを表すのに多くのやり方を持つ。一つの方法がうまく行かなければ、さっと他の方法に切り替える。  要は固執しないことだ。

多くのやり方を持つことできるの、大事だなあ、普段から鍛錬しないといけない気がする。固執しないために必要。

1回ごとの完成度よりも取り組む回数(回転数)を大切にする。また、90%以上の完成度を目指せば、通常は途方もなく時間がかかる。そのレベルはビジネスではもちろん、研究論文でも要求されることはまずない。そういう視点で「受け手にとっての十分なレベル」を自分のなかで理解し、「やり過ぎない」ように意識することが大切だ。

真面目だからやりすぎてしまう。。。これも何が求められるレベルなのかをすり合わせないといけないと思う。まず早く出して、フィードバックをもらうことだね。

ひとつ、聞き手は完全に無知だと思え  ひとつ、聞き手は高度の知性をもつと想定せよ  どんな話をする際も、受け手は専門知識はもっていないが、基本的な考えや前提、あるいはイシューの共有からはじめ、最終的な結論とその意味するところを伝える、つまりは「的確な伝え方」をすれば必ず理解してくれる存在として信頼する。「賢いが無知」というのが基本とする受け手の想定だ。

今回の案件で、自分の案件の技術的なことについて、普段全然話さない他部門のひとに話してさっぱり伝わらなくて苦労した。相手の知識レベル、技術レベルがどうしてもわからなかった。ただ、事前知識を持たないという意味での無知と、適切な情報を与えれば理解はできる(極度にレベルを下げ過ぎない)高度な知性の想定は重要な視点だと思いました。

コンサルタントは高いフィーをもらう代わりに確実に変化を生み出し、クライアントに喜んでもらうのが仕事だ。科学者も限られた時間のなかできっちりと成果を生み出すのが仕事という点は変わらない。いずれも結果に対する強い自己ドライブがないと仕事を楽しめない。報酬は年棒だけで「時間外労働」という概念の一切ない世界においては、こうした考え方をしていないと最悪の場合、奴隷のような生活になってしまう。

コンサルタントと科学者の共通点。両方経験した著者ならでは。

「人から褒められること」ではなく、「生み出した結果」そのものが自分を支え、励ましてくれる。生み出したものの結果によって確かに変化が起き、喜んでくれる人がいることがいちばんの報酬になる。仕事がうまく進んだとき、僕が感じるのは「うれしい」というよりも「ほっとした」というものだ。自分の会社やクライアントに約束した価値を無事届けた、このこと自体が何とも言えない達成感を生む。  この価値を生み出す根っこにあるのが、「イシューからはじめる」という思想であり、脱「犬の道」という考え方だ。これをしっかりともつだけで僕らの生活は格段にラクになる。そして毎日が格段に充実したものになり、一日一日で生み出す価値は遥かに大きなものになっていく。  このことを最後に共有できたら、と思う。

人から褒められることも嬉しいけどね。出した結果でさらに褒められるといいよね。僕はまず自分のチームのために大事なことを生み出して、そしてビジネス価値を組織に出していく働き方をしていきたい。

おわりに

kindle便利やな。