ツナワタリマイライフ

日常ネタから技術ネタ、音楽ネタまで何でも書きます。

AWS S3上の静的コンテンツをCircleCIでdeploy時にCloudFrontのキャッシュを削除する

はじめに

以前、S3上の静的コンテンツを独自ドメインで公開ということでバンドのHPを2つほど作りました。

take-she12.hatenablog.com

take-she12.hatenablog.com

で、CloudFrontのcacheはデフォルトのままなので24時間有効。そのためHPを更新しても最大24時間更新されないんですね。最初は別にいいかと思っていたんですが、ローカルでテストしているとはいえ本番デプロイまで見届けたいということと、更新後の告知まで一緒にやってしまいたいと思ったので、自動でキャッシュを削除させました。

tl;dr

- aws configure set preview.cloudfront true
- aws cloudfront create-invalidation --distribution-id <your-distribution-id> --paths '/*'

詰まった点

検索のためにエラーログを残しておきます。

まず最初にcreate-invalidationだけ実施すると設定が足りませんよーと怒られました。

aws cloudfront create-invalidation --distribution-id <my-distribution-id> --paths '/*'
AWS CLI support for this service is only available in a preview stage.

However, if you'd like to use the "aws cloudfront" commands with the
AWS CLI, you can enable this service by adding the following to your CLI
config file:

    [preview]
    cloudfront=true

or by running:

    aws configure set preview.cloudfront true


aws cloudfront create-invalidation --distribution-id <my-distribution-id> --paths '/*' returned exit code 1

Action failed: aws cloudfront create-invalidation --distribution-id <my-distribution-id> --paths '/*'

そうですかと1行追加しましたが、公式リファレンスにある通り、aws-cliでcloudfrontの操作はまだpreview版なんですね。

cloudfront — AWS CLI 1.11.83 Command Reference

そうして1行追加すると権限がないぞと怒られる

aws cloudfront create-invalidation --distribution-id <my-distribution-id> --paths '/*'

An error occurred (AccessDenied) when calling the CreateInvalidation operation: User: arn:aws:iam::<my-iam-user> is not authorized to perform: cloudfront:CreateInvalidation

aws cloudfront create-invalidation --distribution-id <my-distribution-id> --paths '/*' returned exit code 255

Action failed: aws cloudfront create-invalidation --distribution-id <my-distribution-id> --paths '/*'

ユーザにcloudfront:CreateInvalidationの権限がないぞと。そういえばS3へのフルアクセスしか与えてなかったので、CloudFrontへのアクセス権を与えてあげればOKでした。

f:id:take_she12:20170506175630p:plain

おわりに

緊急性のないHPとはいえ、その後の告知をわざわざ24時間待って確認してからするのはイケてないので、これを機にcache削除まで組み込めてよかったです。はじめからやっておけばよかったな。

「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読んだ

はじめに

読んだ。

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

勉強の哲学から、"存在論的、郵便的"が参照されていたので、東浩紀を1冊読んでみようと思い、チョイス。パッと見の読みやすさは、哲学専攻者というよりは一般大衆 - 観光客になりうる人間向けに書かれていて、楽に読めた。

「哲学とか批評とかに基本的に興味がない読者を想定した本」です。飲み会で人生論でも聞くような気分で、気軽な気分でページをめくってくれれば幸いです(p15)

はじめに - 本書の主張

前提として、我々は今いる環境に規定されて生きている。自分が能動的に、主体的に生きているとしても、それは環境に生かされている。哲学的ルーツは明示されていませんが、冒頭からそう述べられています。

ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能な事でしかない。あなたは、あなたの環境から予測されるパラメータの集合でしかない。

だからこそ、「環境を意図的に変えること」「検索ワードを変えること」「生活にノイズを加えること」が重要だ、というのが本書の主張です。

ネットは強い絆 - 強固に結びついた絆をより強くするのには向いています。逆にリアルは弱い絆 - 偶然出会った誰かに職を紹介されるような - 弱い絆で溢れており、同時にノイズも溢れている。だからネットからでて旅にでて、ノイズを取り入れて検索ワードを変える体験をせよ。今後の章は主に旅によって検索ワードが変わった実例が述べられています。

これはその通りで、実感レベルでも人間は環境によって変わるし、環境が変わらないとなかなか意識は変えられないでしょう。そしてgoogleに支配された世界ですが、googleは知りたいことは教えてくれますが、知りたいことを知るための検索ワードは教えてくれません。検索の仕方がわからない場合があることは当然起こりうる。

ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができないからです(p34)

書きたいと思う事、みたいと思う事しかネットには現れない。それを旅を、旅によって得る検索ワードによって、その限界を超える、と主張しています。

僕自身も、旅に出て、どうやって検索ワードを増やすか、それを本書と一緒に考えたい。

ダークツーリズムと観光客

今僕もつられて作者が近年書いた"ゲンロン0"を読んでいますが、その本でも「観光客」というのが1つのテーマです。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

本書では福島原発チェルノブイリ原発アウシュヴィッツ収容所など、負の遺産を観光する「ダークツーリズム」を例に、観光地化し、観光客としてリアルを知ってもらうことの重要性を説いています。観光客は気軽で無責任だからこそ、開けるものがある。確実に復興や救済にコミットしろ!というハードルの高さであれば誰も近づかず、いずれ風化してしまうでしょう。その点観光地化して後に残すという考えは僕は賛成です。

観光地というと妙に「お気楽で」「真剣でない」「あそび」のニュアンスがつきまとうので、著者はその限界を超えたいのだと思います。しかし、福島観光地化では苦労されたようです。とても良い挑戦だと思うのですが。いずれにしても僕はまだその「リアル」を見てすらないので戯言なのですが。

村人であることを忘れずに、自分の世界を拡げるノイズとして旅を利用する事。旅に過剰な期待をせず(自分探しはしない!)、自分の検索ワードを拡げる経験として、クールに付き合うこと。

村人、つまり戻る場所はある。旅人のようにずっと点々としているわけではない。いずれ戻るから、旅は観光になる。ふらふらしていてもいい、何をしっかり学ばなくてもいい、のちにでる"偶然性"によって様々な出会いをして、検索ワードを増やして帰ってくるのがいい、そういう観光客であれ、と言っています。いいですね。

表層文化論と言葉にできない痛み

3章のアウシュヴィッツで触れられていますが、

表層文化論というのは、簡単に言えば、絵画や映画、文学、建築などを「記号の構造」に焦点を当てて分析する学問です。(p65)

かつてのヨーロッパの知識人たちが、アウシュヴィッツという表層不可能な体験、つまり「言葉にできない体験」を言葉にする事に尽力したのと同じように、ぼくおまた、たまたまではあれ福島第一原発事故のような大きな事件に遭遇したからには、似た責務を負っていると考えています(p67)

そしてそのためには現地に行くことが大切だとも、述べています。

同時に「誤配」の概念についても述べています。

言葉にならないものを、それでも言葉にしようと苦闘したとき、その言葉は本来の意図とは少し異なる方法で伝わることになります。哲学的な表現を使えば「誤配」されることになります。そしてその誤配を通して、ぼくたちは、言葉にならないものそのものは知る事ができないけど、そんな言葉にならないものがこの世界に存在する、その事実だけは知ることができる。要は、記号を扱いつつも、記号にならないものがこの世界にあることへの畏れを忘れるな、ということです。

だけれども、その言葉にならないものはきっとリアルにしかないし、リアルを体験しないと、言葉にならないものを"感じる"こともできない、そしてそれはネットにはない。そこに触れるために、近くためにもやはり今と違った検索ワードが必要なんですね。

言葉にならないものと言えば自分自身の感情についてよく浮かべますが、人々の悲しみ、ひいては大事故で起こったことそのもの、その悲しみ、悲劇は、言葉に"しづらかったり"、安易に言葉にするとそれこそ"誤配"を招いてしまう、それに慎重にならざるを得ない。だけれど無関心でいていいものではない。

なぜ私たちは言葉にできないものを言葉にする努力を、あるいは言葉にできなくても感じようと、リアルに触れようとするのか、すべきなのか。

本書の主張の先に飛んでしまうが、そういった外の世界の悲劇や動向に興味がない人間が - ネットやバーチャルで十分だという人間が - 増えていることの危惧があると思う。著者の哲学は「よりよく生きる」ための思想であり、村人でいては自分自身を変えられない、つまり「かけがえのない人生でいられ」ず、環境に規定されたコードの中で生きるしかないという前提のもと、それを超えるには旅にでて、言葉を知り、言葉を増やし、また旅に出ることで自分自身を変える - それが「よりよく生きる」の1つの解なのではないか。

まだ途中なのに結論めいたところに達してしまった。いかんいかん。

欲望と移動時間

4章では今や知ろうと思った情報は簡単に検索で手に入る(一方で検索ワードを知らなければ一向にたどり着けない)わけで、いかにその情報を知りたいという"欲望"を生むかについて述べられています。

なぜ僕たちはわざわざ時間とお金を使って、遠くへ行き、"観光"するのか。別に"情報"を知りたいだけならgoogleストリートビューでもいい、今後もバーチャルリアリティの発展にともない一瞬で世界旅行を体験し、一瞬で日常に帰ってこれるかもしれない。

本書では旅、いや観光の目的は情報ではなく欲望であると述べています。

身体を一定時間非日常のなかに「拘束」すること。そして新しい欲望が芽生えるのをゆっくりと待つこと。これこそが旅の目的であり、別に目的地にある「情報」はなんでもいい。(p84)

この拘束された時間にいろいろ考える。考えるうちに次の欲望がでてくる。あるいは体験したこと、見たことで別の欲望がでてくる。それが旅の本質だと述べています。

「体験こそが全て」とかいう言葉でぶん殴られるよりよほど説得力がありますよね。この前提に基づいて、(本書の後半ででてきますが)旅をして、旅で得た新しい言葉ではガンガン検索せよ、だけどSNSは切っておけ、という主張につながるわけです。

確かに脳の仕組みとして、たくさんの知覚で刺激を受けた方が記憶に結びつくという話はありますが、それよりも拘束された移動時間に何を考えるか=その時間を次の欲望を生む時間としているわけです。

しかし、情報への欲望はなぜ持たないといけないのでしょうか。情報を提示する側にとっては、確かに欲望を持って検索してもらいたいが、本書が推奨する観光客にとって、検索の欲望を連鎖させることで、観光を連鎖させること以外に何か目的はあるのでしょうか。本書では、移動時間に深く思考することが目的、としか述べられていません。

具体的な例としてはすでに知ってしまっている情報(例えば観光地の映像)に対して実際の感情でタグ付けすることをあげています。

本章では前半のチェルノブイリ原発の風化を防ぐための観光地化の施策と並べて、福島第一原発の悲劇の風化をどうやって防ぐかを考えるとともに、チェルノブイリ原発から風化させないためには「情報の提示ではなく感情の操作(p79)も必要」であることに気づき、情報を検索する欲求を喚起する必要がある、ここまでは分かる。

その後いきなり主体が旅をする観光客の立場になったため論理が飛んでいる。観光客としては情報を得るのではなく、旅によって時間を拘束されることで思考を巡らせ、次の欲望を見つけるべきだ、これも、観光を続けるためには必要だと分かる。

これはおそらく、「言葉にできないものを見つけること」につながってくると考える。本章では最後に「情報はいくらでも複製できるけど、時間は複製できない。」(p85)と述べている。このことは、旅をして体験することで、複製不可能な、行ったひとにしか分からない体験(既に得ている情報への感情的タグつけ)をすることと、それ自身が複製不可能であることから、前章で語られた「言葉にできないもの」に近づく努力をせよ、それを繰り返すこと(次の欲望を見つけること)でかけがえのない自分を見つけなさい、ということと暗につながっているのではないか。

あえて本章前半の欲望がなければ検索されないということと関連付けるのであれば、負の遺産を風化させまいと観光地化させる立場と逆の立場からみると、観光客の我々にとっても、そのリアルな(言葉にしようのない何か)にたどり着くためには、検索ワードを変えるために、欲望の循環を行うために、旅に出なさい、ということになる。

同じ事をぐるぐる言っていて、この章はうまく着地しなかった。それぞれの主張は分かるのだが、そこの関連性を言葉にできなかったので次の章に進むとする。

言葉のメタゲームと憐れみ

本章は哲学的内容を含むため、内容の整理に留めたい。

  • フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの著作に「言葉と物」というのがありますが、人間の現実は要は言葉とモノからできています。(p91)
    • 言葉で構成されているという思想
    • 実際のモノが大事だという思想
  • ジャック・デリダ - キーワードは「脱構築」です。あらゆるテキストはその解釈の仕方によって、どんな意味でも引き出せるという考え方です。デリダによれば、言葉というのはじつに頼りになりません(p93)
    • 議論はいくらでもメタ化することができる
  • ネットは原理的に、「あるひとが検索で辿りついた世界観」と「別のひとが検索で辿りついた世界観」を調停することができないメディア(p98) - キャス・サンスティーン
  • 記憶の書き換えに抵抗するために「モノ」を残す
  • 物語が多様で調停不可能でも、最後は現場に行くことで、各人が「自分のチェルノブイリ」を発見する事ができる。しかし記憶が書類だけになってしまうと、そういう調停の可能性が失われてしまう。(p105)
  • ホッブスやロック - 人間は自然状態では争いを止められないのであり、だからそれぞれの権利を制限し、社会契約を結ぶのが「合理的」 - 人間は理性的で論理的で、頭がいいので、自分の本章を抑圧し社会を作る(p107)
  • ルソー - 人間は本来は孤立して生きるべきなのに、他人の苦しみをまえにすると「憐れみ」を抱いてしまうので、群れを作り社会を作ってしまう - 社会契約の根拠は合理的な判断にではなく、むしろ動物的な感情にある(p108)
  • 同様にアメリカのプラグマティスト、リチャード・ローティ - 人間の連帯で重要なのは理念の共有ではなく、「あなたも苦しんでいるのですか」といった想像力に基づいた問いかけ(p109)

人間は思想は共有できない。モノしか共有できない。だから新しいモノに触れるため、旅に出よう。(p111)

前章でつながらなかった検索欲求、すなわち欲望について、この章では欲望 もモノであると言っています。欲望は検索したいという、知的欲求だけではなく、性欲もそうでしょう。そういった欲望を理性的、合理的に判断できない、人間は弱い、だからこそその憐れみをもって社会を作るというルソーの思想に対する著者の解釈には納得できますね。

ここにでてきた哲学者や思想については今後復習するための手がかりとして残しておくことにします。

強い絆と弱い絆 必然性と偶然性

偶然と必然の関係。「この1回の人生」と統計の関係。それがぼくの哲学のテーマであり、また本書の基底にある問題意識です。

結局、統計的に最適化された世界で生きていく、ネットの世界で勝ち抜くには体力勝負しかない。人間はいずれ老いる。確かに最適化された戦略を選べば、体力が持つ限りは成功を得られるだろうし、最適な検索ワードを得て最適に生きていくとそれなりに楽しく生きていけるでしょう。だけれども、あえて偶然に身を曝そう、だって人生は一度きり、統計的には寿命は80年だがいつ死ぬかわからない、そういった主張が書かれています。

やはりこの章、偶然性と、ネットの検索で得られる結果と、自分がどう自分らしく(あるいはかけがえのない人生を送るか)生きていくかについては、僕も非常に興味があり、共感を得ました。総括の章で述べるとしましょう。

観光客の5つの心得

ここは最後のまとめで、いわゆる技術的な部分です。自分が引っ張れるようにタイトルだけ述べておきます。内容が知りたい方は本を手に取ってみてください。

  1. 無責任を恐れない
  2. 偶然に身を委ねる
  3. 成功とか失敗とか考えない
  4. ネットには接続しておく
  5. しかし無視する - 日本の人間関係は切断する

本書のまとめ

  • ダークツーリズム(チェルノブイリアウシュヴィッツ)を参照し、風化してしまうものを風化させないためには観光地化が有効であること
  • モノを残すことで、後からでも各個人が触れ、各個人が自身の中に物語を作り、解釈することが可能であること(逆に記憶の継承は頼りないこと)
  • 検索ワードを変えるためには旅にでて、ネット検索では得られない言葉やモノと出会うこと
  • 情報を得ることが目的ではなく、検索ワードを増やすための旅に出る。旅は時間的拘束を伴うため、次の欲望を生むことできる

などが本書の主張でした。観光、旅、モノの継承、その哲学的背景が、コラム形式ででてきたので、完璧につながりがあるように述べられてはいませんでしたが、そのそれぞれがゆるくそれぞれとつながっており、著者の関心事項であることはわかりました。

自分の旅行観

最後に、本書の重要テーマである「検索ワード」「偶然性」について、自分の考えを述べます。

僕は旅が好きです。しかし、何のために旅をするのかについて、常に考えてきました。旅には、失敗もあれば成功もある。あるいは「無難な」旅の仕方も知ってきました。その上で、(本書の哲学的見解とは離れますが)"すべての旅は最高の旅である"という1つの結論を得ていました。これには「(ある程度のガイド - 基本的な旅程を準備した上で)偶然性に身をまかせ、それを全て受け入れ、かつ、それを楽しめる仲間と行くのであれば、すべての旅行は最高になる」という結論です。

逆に、今でも、(小さい例でいえば飲食店を選ぶときでさえ、)検索することに対する恐れがあります。というのも、最近の旅でも、友人が検索して評判がいい店にいったらあらゆる店が最悪で、「ネットはあかんわ!勘でえらぼ!」となり、ふらっと歩いて入った店が最高だった経験が1度ではなくあります。これについてはネット検索で評判がいい=自分の中で期待値があがる ことで残念さが増す、という考察もあるのですが、僕はそれだけじゃないと考えています。

これは著者が述べる、「何でも合理的に、正解を選ぶのをやめましょう」という主張と重なると思っています。

今回の僕の例は検索ワードを変えないと見える世界は変わらないよという主張とは完全に重なりません。どちらかというと蔓延している口コミサイトとの付き合い方になるかもしれません。しかし視点をあげてみると、「同じような検索ワード」だからこそ、同じ口コミサイトにたどり着く、と捉えることもできます。

僕は本書をヒントに、ネット検索はおおまかな指針を立てるため、あるいは現地での細かい情報収集のために使い、偶然に身を任せる割合を増やそう、と思いました。

ですが、"観光地化"された場所というのは、ネット検索されやすく(本書でフクシマがそう目指されているように)なったものであり、安易な検索ワードでたどり着きやすい場所だと思っています。それは結果としてモデル化された、あるいは他者と同じような観光 - 旅行になりうるのではないか。それはネット検索で上位の観光地に行くこと、口コミサイトで上位の飲食店に行くことと大差ないのではないか?

そうすると、大事なのは、ネット検索上位だから、口コミ上位だから、という動機で行くのではなく、本書でも述べられている通り、自分の欲望のままに、旅をすることが、やはり大事なんですね。

自分の欲望を叶えるために、その補助としてのネット・スマホがある。そして可能な限り偶然性に身を晒す。そういった旅をしていきたい。

もう1点、本書で語られていない、自分自身の考えを述べると、誰と行くかについてです。

僕は旅は(偶然性も手伝って)発見の連続であり、それを受け取る個々人の感性の交換・共有がしやすい場所だと思っています。前で述べた「偶然性を受け入れられ、楽しめる」仲間であることはもちろん前提ですが、本書で述べられている「拘束された時間」は、1人旅であれば自分が思考する時間であるならば、お互いの感性・価値観を交換する時間にももちろんなり得るはずです。

だから、目的を満たす旅ではなく、移動時間にお互いの価値観を交換するような、そんな旅でありたい。もちろん、偶然な出会いとともに。

1人旅も、友人との旅も、両方楽しんでいきたいですね。こんなに長く書けてびっくりしてます。旅、考えたかったんでしょうね。ぼくは何のために旅をしているのか。GW、ちょっと旅にでてきます。その前にこの本を読めて、そして見返して、自分の考えを確認できてよかった。

「はじめて考えるときのように - 「わかる」ための哲学的道案内」を読んだ

はじめに

読んだ。

すっかり哲学にドハマりした僕は、わかりやすくハマるために本屋に行き、この本に出会った。考えることを考えたい、その手をとってくれそうな本に出会い、まさに思惑通り、手を引いてくれた。読んでよかった。

きっかけは「勉強の哲学」

take-she12.hatenablog.com

そして同期と考えること、勉強することについて語り合ったりもした。

take-she12.hatenablog.com

それらがあってのこの本は、それぞれの本や会話が「こういうこと言っていた」「あれはこういうことだったのかも」とつながりを発見できることができて、うまいこと勉強の楽しさに気付けている。

全部で6つの章から成り立っていて、それぞれで大きなテーマがある。順に引用しながら自分で考えてみよう。

1. 「考える」って何をすることだろう

「考える」っていうのは、よくわからないけれど、とにかく何かをすることだ、そう思っているかもしれない、でも、どうやらそれは違うみたいだ。「ずっと考えている」という言い方をぼくたちはする。そしてそれは厳密に言うとぜんぶ嘘になってしまうように思えてくる。(p24)

考えることを考える第一歩の章。考えることは行為か?「きみのことをずっと考えていた」とはどういうことか?と身近な例をあげながら、考えることを考えていく。

逆に「考えてない」を考えることで、さらに考えることをせめていく。ある問題に取り組もうと考えて、そのときその瞬間にその問題のことを頭に浮かべてない状態で、ある瞬間何かのきっかけでその解答が浮かぶことだってあるだろう。そのときは考えていなかったのか?

考えるっていうのは、そうした習慣的な結びつきの網の目から出ていくことだ(p41)

コップを見て水をいれるものだと思うことは考えることではない。木を見て木だと思うことは考えることではない。既存の常識 - ここでいう"習慣的な結びつき" から離れることが考えることであると主張している。

僕は以前の対談でこう言っている。

考えるって言葉は曖昧。考えるって行為は曖昧か、あるいは行為であるなら曖昧ではないか

考えることを行為として捉えようとした。そしてこのとき、無意識に考えることに「行為」と「言葉そのもの」で捉え方が違うことに気づいている。本書の「考える」ことはおそらく後者だろう。というのも、考えることは行為になりえない。

本書で考えることは、「耳を澄ましている」という答えを導いている。

ある瞬間に「思って」いなくても、考えはじめたときから、そのことについて、「思って」いないところで、そのことについて敏感に、それは全身で、あるいは自分の身体すらの外側で(これは思想は身体に宿るという哲学者の思想とぶつかりますね、誰だっけな、あとで調べておこう*1)耳を(感覚を)澄ましていることになる。

そしてこの主張には隠れた前提がある。考えることには、問いが前提だ。

「うまい問題を考えるんだ」と主張していた同期の言う通りですね。

問いが曖昧なまま考えることはできないのだろうか。

上記の問いは問いとしては曖昧ではない。

例えば問いが曖昧な場合、、、「最近お酒について考えてるんだ」と言うと、「お酒の何を考えているの?」と返したくもなる。

「いや〜お酒って飲みすぎると酔うけど人間って何で酔うのかとか、酔うってそもそもなんなんだとか、お酒ってなんでジュースより好きなのかとかさ〜」と答えると、問いがバラバラで一意になっていないだけで、おそらく問いそのものはある。中には考える必要すらなく、勉強する(知る)ことで解決する問いもあるだろう。科学的に、アルコールと酔いが説明できるように。

あぁ、考えた。考えるって何かを考えたぞ。僕は確実に哲学にハマりつつある。。。(笑)終わらないのでいったん次に進む。

2. 問いのかたち

先ほど先に書いてしまったが、ここで考えることに付随する「問い」について触れられている。考えることは、何を問うか、問うことを問うこと。

そして問うためには、学びが必要で、逆にいえば学べば学ぶほど、問題が増える。

何かを学ぶということは、もちろん、問題に答える知識や技術を身につけるという意味もあるけれど、それは実は学ぶことの本質ではない。ぼくらは本や学校で、これまでひとが見出してきたさまざまな秩序、道筋を学ぶ。だけどそうやってさまざまな「型」を学ぶことによって、いままで見えていなかった、あるいはぼにゃりとしか見えていなかった「型やぶり」なものが見えてくるようになる(p76)

問いに答えるために学び、学べば問いが増える。こうして問いと変えながら、僕らは学ぶ。学んで、問う。問うて、学ぶ。これこそが考えることかもしれない。

3. 論理的に考えるだって?

論理は考えないためにある(p87)

「論理的に考える」ということばに対するカウンターとしてこの章はある。カウンター、というよりは、「気をつけなさい」という警笛にも聞こえる。

そして「論理的」であることと「考える」ことの関係性について触れている。論理的なものは、考えなくても答えが出るものであるから、論理は考えないためにある、と言う。

この章はちょっと難しくて、完全には腑に落ちていない*2

ある問いには、論理学的言葉・・・ 「である」「は」「または」しか重要ではない、論理にはそれぞれの問いに含まれてる言葉、存在、前提がどうであるかとは切り取って論ずることができる。一方で、論理は言葉の意味をきちんと捉えることとも言っている。

さらに論理だけやる場合、問いは無制限に広がってしまう。あるサイコロを観察したとして、「サイコロの面では7つではない」「サイコロは球ではない」ということも立派に論理的だ。しかし普通はそういうところまでは考えない。

考えるときに論理は観察や推察が必要だけれど、もっと重要なのは無数にある「論理的に正しい」事象から取捨選択することであり、それがコンピュータでは難しい(後の5章に続く)ということを主張している。

この章は重ねて言うけど、難しい、というか、つながりを持って主張を理解することができていないかもしれない。

  • 論理は考えることではない?
  • 考えることは無数の論理から必要なものを取り出すこと?
  • 論理的に正しいことを並べることは考えることではない?

しかし、論理は役にたつ。論理学的用語によって前提や言葉の意味を問うことができる。論理は前提や言葉の意味と無条件に成立するからこそ、言葉の意味を問うことに役にたつ。

論理の言葉は最低限使えた上で、言葉をきっちり捉えること(前提を正しく認識すること)を通じて、無数にある論理的に正しいことを取捨選択することが、考えることなんだ。

本書の内容を必死に反芻して上記のようにまとめた。何かが、何かが足りないのか、本当にそれが考えることだと自分の中で納得できていない気がする。いったんこの結論で次に進みます*3

4. ことばがなければ考えられない

否定はことばで表される。言葉がなければ否定はない(p125)

何かを否定するとき、否定するためには「ある」ことが前提にある。自分の部屋の写真を見て「あっクジラはいないね!」などと言ったりはしない。そして「クジラがいない」という言葉を加えてはじめて「クジラがいない」という否定がなりたつ。つまり、「ないものはない」という主張がなりたつが、この主張には矛盾が孕んでいる。

そこで、"言葉がなければ"否定はない、という主張につながる。何かの存在を否定するためには、言葉がなければ、否定することはできない。言葉で補わない限、そこには「あるもの」しか意味しない。ないこと、すなわち否定を意味するためには言葉が必要であり、それが「言葉がなければ否定はない」という主張だ。まさに、この「ない」主張もこの言葉が必要で、メタ的に成り立っている。

次に、チンパンジーや自動ドアといった動物や機械を使って「考える」ことについて再度考える。考える"風に"見えるためには、単に刺激に反応しているだけではいけない。ああしたらどうなるだろう?こうしたらどうなる?こうしてみよう!こういう過程が「考えてる」という風に見える。可能性を考えることが"考える"ことに少し近く言葉である。

「もしかして」の世界に入り込んだ。現実性から可能性の世界へ入っていったことを意味している(p134)

さらに、言葉を使えば、可能性の世界 - 箱庭を構成することができる。

その点、文字や音声は手軽だ。どこでもササッと開陳してそこに世界の箱庭を作ることができる(p147)

  • 考えることは可能性の世界で試すことである
  • 言葉を使えば可能性の組み合わせを簡単に試すことができる

この2点より、「言葉がなければ可能性はない」と主張する。だから、言葉がなければ、可能性の否定である、「否定」もない、というわけだ。

ここまでが引用およびまとめだが、僕自身、哲学、思考、伝達に「ことば」が必須であり、言葉の持つ意味や言葉の魅力についてずっと考えてきたので、本章は新しい視点を与えてくれた。

考えることと、ことば。

僕は今こうやってブログに書く事で本の主張を整理したり、自分の気持ち・考えを明らかにしています。

ことばの上で考えてる。

ことばは、伝えるツールであるとともに、思考を固定させる記号でもある。*4

言葉とモノ。言葉と概念。(社会的に・恣意的に)それらは結びつけられ僕らの日常にいるけれど、考えることが現実をよりよくしよう - 哲学の目的の1つかもしれない - であれば、現実の可能性について言葉にすることで、現実がどう変わりうるか試行錯誤するために、言葉は必要不可欠であるという意見には納得できる。

5. 見えない枠

関係あるのか、ないのか、それが問題だ。ハムレットよろしく懊悩している(p160)

この章では人工知能を搭載したロボット、R2D1の事例を元に、無数にある選択肢の中から「関係あるもの」のみを考える際、どうやって「関係あるかないか」を判別するのかという問題について扱う。これは3章での論理の話からの継続だ。

参考:フレーム問題と世界

この木箱が爆発するかどうかに、部屋の隅にあるコーヒーカップの残量が関係あるかって?"常識"で考えれば関係ないってわかるだろう!ではいったいそれをどうやって関係ないと判断するのか。どうやって"常識"を知るのか。

余談だが、常識についての疑問は堀江さんの教育論についての書評で述べた。常識なんてものはない。あるいは定義が不明瞭で、各個人の経験あるいは社会によって異なる、"ふわふわした存在"だ

take-she12.hatenablog.com

たんなる「常識」なんていうのはありはしない。(p173)

結局常識は目安にすぎず、その目安も同じようにロボットには判断できない。

疑いは局地的でしかありえない(p183

哲学は徹底的に疑う。常識なんてもんじゃない。そもそも自分が今意識している今は現実なのか?というレベルまで。

ただし、ありとあらゆることを疑うことはできない。ありとあらゆることを疑うこと、しかし、ありとあらゆることを疑いつくすとやがて「この世の絶対的真理は何か?」という境地に達し、そうではないという方向になってきたのはこれまでの哲学史にある通り。

すべてを疑うことはできない。疑うためには、疑わないでいい点を足場にし、その点は正しいとした上で疑う必要がある。

“常識"に似た、何かを足場として、その中で、何かを疑い続ける。その過程でまた足場が変わる。

考えるってことは、そんなふうに軽やかに踊ってみせることだ。(p187

この考え方は「勉強の哲学」での勉強の方法にとても近いように感じた。勉強して、いったん足場を仮固定して、次の場所へいく。この例では「学び」を有限化する話だったが、学びを「疑い」と見なすなら、同じことだろう。

take-she12.hatenablog.com

6. 自分の頭で考える?

自分の頭で考えるというのはまちがいで、頭の外で考えたり、ひとといっしょに考えたりするのじゃ(p195)

この章でも考えることを考える。それも、考える場所について。自分の頭で考えること、いや、自分の頭で「思う」ことだけが考えることではない。

だって、筆算をしていも、紙の上で考えているだろうし、文字を書きながら考えたり、喋りながら考えたり、身体の外で考えていることはいくらだってある。

まとめ

この本の最後に考える技術について素晴らしいまとめがあるので題だけ紹介する。詳細は本を読んでほしい。

  • 問題そのものを問う
  • 論理を有効に使う
  • ことばを鍛える
  • 頭の外へ
  • 話し合う
    • 自分の抱えている問題をひとに伝えようとすることは、問いのかたちをはっきりさせるためになによりも役に立つ
    • さまざまな意見に出会うこと、いろんなものの見方に出会うこと、新しいことば、新しい意味の広がりに出会うこと。そうしてはじめて、ぼくはぼく自身に出会えるわけだしぼくが思ってもみなかったところに踏み込む事ができる(p214)

おわりに

いろんな哲学をバックグラウンドにしつつも、これほどまでに「はじめて考えるときのように」考えることを導いてくれる本であることに驚き。考えるとは何か。そして考えるときに僕たちはどうするか。実現例を交えながら、そのとき僕たちは何をしているか、何を浮かべているかを例に、考えることについて考えるヒントをくれている。

考えるときに有効なステップは「まとめ」で述べた通りだろう。本書を通して僕は考え方ではなく、考えるとは何か。そして考えることで何を実現したいかを考えたい。

僕は考えることは、本書が示す、"長期的に、問いについて全身で研ぎ澄ます状態"でもなく、"(僕の同期氏が定義した)思考を巡らせること"でもなく、「問いについての現時点での解を見つけるための、仮説を用いた試行錯誤のプロセス」であるとしたい。

「でもなく」という言葉を使っておいて何だが、その両者とも否定しないし、包含し得る。本書の定義では問いを決めた時点で解が出るまではたとえ「ラーメンうめぇw」と思ってるときや、「うぉぉこの子超可愛い」と思った瞬間までも考えるまで含むとはさすがに言い難い。かと言って、後者の、自分の頭で思考を巡らせているときだけに限定したくもない。

僕はむしろ、自分の頭より、こうやって文字にして"考える"ことが多い。

こんな風に、僕は読んだ本と、友人との会話を持って、"考える技術"に沿って、"考えることを考えた"わけだ。

  • 頭の外で考えること
  • 言葉による試行錯誤をすること
  • 適切な問いであるか問うこと

このあたりが重要だと感じた。良い機会を与えてくれた著者と同期氏に感謝。

*1:調べました。メルロ =ポンティ - 身体の哲学

*2:腑に落ちるって、どういうことだろうね!

*3:引用と自分の意見を区別すること、足場を仮固定して先に進むこと、大事

*4:関係ないが、言葉と実態の意味づけによってこの世界は構成されている、ソシュール構造主義は後で学び直したい。

2017年4月振り返りと5月目標

はじめに

4月は目標立てましたね。しかし過ぎるのがはやい。ビックリする。仕事もそんなに忙しくなかったのにな。。。

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4月目標振り返り

音楽

  • YAMAHA作曲コンテスト曲提出曲を公開

ドラムの打ち込む調整や、ギタートラックの追加はしていませんが、最近ミックスについて当時よりは学んだので微調整して公開しました。

いい曲だ〜〜〜山崎あおいさんに歌って欲しかった。しかし入賞曲のレベルの高さ山の如し。

  • とけてなくなるアルバムボーカル録音[完了]
  • なのはオリジナル1曲作詞作曲[NG]
  • とけてなくなる新曲2曲 作詞作曲する[NG]
  • カバー曲を1曲公開[NG]

とけてなくなるのアルバムの制作は順調で、5/17に無事出せる見込みです。なのはっていうバンドは猫の休日というバンド名に変わったんですが、そこで次のオリジナル曲、2曲ですが作曲だけしました。とけてなくなるの新曲は公開まではいけてないですね。新曲、ちょっとずつ作っていますが、やはりリリースを先に出さないと新作まで手が回らない。カバー曲も同じく。とにかくとけてなくなるのリリースが、はじめてのミックス・マスタリングとあって大変です。。。

猫の休日バンドは6月にリリース予定です。

猫の休日

技術

0からはじめるディープラーニングやる

ちょっと技術勉強してなさすぎてやばいのでこの1冊だけはやります。

2章までやりました。(笑)

読書

月10冊

今回は9冊かな。

レコーディング/ミキシングの全知識 [改訂版] (「全知識」シリーズ)

レコーディング/ミキシングの全知識 [改訂版] (「全知識」シリーズ)

いちばんやさしい哲学の本

いちばんやさしい哲学の本

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

藤子・F・不二雄のまんが技法 (小学館文庫)

藤子・F・不二雄のまんが技法 (小学館文庫)

なお、堀江さんの教育論と、勉強の哲学はブログを書きました。

take-she12.hatenablog.com

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読んだ本を見ればわかる通り、僕は勉強の哲学を読み、千葉先生のルーツである哲学の世界にどっぷりハマっています。現在絶賛勉強中で、今後このブログは哲学書についての書評が増えてくると思われます。弱いつながりや、哲学入門についても今後ブログを書く予定です。

村上春樹の中でも多崎つくるは面白かったですね。一番「意味わからなくない」小説でした。(笑)

健康

月100kmラン 3月忙しさにかまけてカレーばっかり食べて運動全然しなくてすっかり太ったので調子を戻します。

32kmでした。全然ダメだな!

ただ10kmランは復活したので、10回やればいいんだけど、仕事忙しくなくてもなかなか、ね。カレーを食べる日は走るぐらいしないとダメですねこれ。

ブログ・note

月20記事

ちょっと最近記事も減ってきていて、思考の時間も減っている気がするので、毎日とは言わず、月20記事を目標に何かを書いたり考えたりする時間を意図的にとって調子を戻したいと思います。

インプットの時間は増加傾向にあるんですが、アウトプットの時間は減ったままですね。結果、はてなブログは5本、noteでのエッセイが2本。

note.mu

note.mu

全然足りない。でも、ここは増やしたい。対策を練ろう。

5月の目標

音楽

  • とけてなくなる5th albumリリース

もうこれに尽きるかなぁ。猫と休日バンドのリリースも6月に控えてて、今月レコーディングするのでその後はまたミックス・マスタリング作業なのでそれで手一杯かなと。

オリジナル曲も作っていきたいので一応目標にあげておく

  • 猫と休日の新曲デモ2曲作成(作詞未でok)
  • とけてなくなる新曲1曲公開
  • Superflyの28カバー公開
  • クリープハイプのカバー公開

3つめは、YAMAHAコンテスト曲の仮歌を歌ってくれたお姉さんと音楽やろうよーと言いつつなかなか進まないので、まずカバーしようよー企画で、DTMの使い方を教えるついでにまずカバーから何か形にしようかーという話。

4つ目はなぜか同期氏、僕はクリープがいいよ歌ってよと言うのでほなやるわ、という。カバーね・・・圧倒的音感のない私、時間かかってしまうのでオリジナル佳境の今取り掛かる時間があるかどうか。ちょっと背伸び。

技術

最近熱が冷めすぎてすごい。でも先月は勉強会には2つ行ったんですよ。kawasaki.rbとmeguro.rb。ちょっと外に出ないとな感と、仕事変えたい感はあって、いろいろソフトウェアエンジニアとしてキャリアをどう転がすか決めかねているんですが、いかんせん音楽と、さらに哲学に興味が移ってからはソフトウェアエンジニアリングについての自己学習が止まりすぎてますね。。。

ちょっと同期と勉強会でもして無理やりでも学習とアウトプットの機会を作ろうと画策してるところ。2グループで軽い勉強会をする予定なので、そこで2つ発表することを目標とします。(そうすれば意地でも勉強するでしょ手法)

読書

変わらず、月10冊は、あくまで目安。こんぐらいのインプットをすれば、おのずとアウトプットは増えるので。おそらく哲学にどっぷり浸かる月になるかと思います。

健康

意地でも月100kmを目標に。本当カレー食べた日は絶対走るのと、定時であがった日も走ろうな。

ブログ・note

note5つ、ブログ10ぐらいが現実的かなと。

note、夜かけたら書こうっていって書かずに寝ちゃうんですよね。ブログも、自宅でPC広げる場合はDTMやってるから、どうもカタカタアウトプットするには場所で区切ってやる必要があるようです。会社にPCはちょいちょい持っていってるんですが、昼飯抜いて昼休み1時間がっつりかけてブログは書きますかね。noteでのエッセイも、走ったあと書く・移動しているときに書くという動機付けてやりたいと思います。

何事も習慣にするにはトリガーと報酬が必要だというのはマシュマロテストでありましたね。いや別にこれ報酬ないけど。

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おわりに

何より一番の問題はこの目標を書いたら書きっぱなしで次の振り返りまで見ないことだと思うんだけどどうしたら常に目につけることができるんだろう。トイレに貼るかぁ?(笑)

問題を設定できるまで考えること、そして考えることを考えた

はじめに

勉強の哲学を読んで、猛烈に考えることを考えた。ちょうどそのとき会った同期に「これ(勉強の哲学)面白いから読んで意見を聞かせて欲しい」と言ったところソッコーで読んでくれていろいろアドバイスをくれた。slack上のログをまとめたものです。

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以前は目標の呪いについて語り合ったT氏ですね。

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勉強のコンプレックス

(僕のブログに書かれている、自身が勉強が下手だという記述に対して)

T「最初に聞きたいんだけど,なんで勉強下手やと思うん?」

僕「客観的な根拠、数字はない、主観的な体感で、かけた時間の割に成果が小さいと感じる。「努力」は他者から認められることはあるけど、それがアウトプットにつながってない、アウトプットを褒められることはないから、インに対するアウト効率、すなわち勉強の得意度、が低いと認識してる。まぁ元々持った劣等感(コンプ)がそう言わせてるだけかもしれん、なかなかそいつとは離れられない。」

T「コンプレックスは拭えないものだからね.  俺も自分の指導教官の圧倒的すぎる数学力*1をみせつけられて,すごくコンプレックスを抱えたこと有るし.」

僕「コンプがあろうとなかろうと、自分がしたいことには抗えないから、共存するしかないね。」

T「俺が考える勉強ができる人っていうのは具体化と一般化ができる人で,そういうことができる人は自分で考えることを主軸にしてるからか,ものをわかったことにしない傾向があると思っていて.逆に器用貧乏な人に多いなと思うが,わかったことにしちゃう人かな.あるいは飲み会の小ネタにしか使えない段階で終わってしまうと言ってもいいかもしれない.へぇそうなんだ面白い.そういう考え方もあるかもねーで終わってしまうというか.言い方悪いかもしれないけど,(僕)もそういう傾向を感じときがあるかな.」

T「で,勉強にコンプレックスがあるんだったら,俺からのオススメは自分しか気にならない問題を提唱することだと思う.答えは最悪どうでもいいし,無理に答えを出す必要なんてないから問題を提唱することが大事だと思う.そうすると,自分らしさも出るし,自分が世界で一番詳しい問題を作れる.」

僕「そのとおりだね。問題を提唱は友人にはすることはあるけど、相手を選んでるかもしれない。あと、"問題"の認識がまだあってないかもしれない。」

わかったことをわかったことにしない。ここでいう「問題を作る」ということは、深く深く自分で考えた結果でしかできないことということに、このあと気づく。つまり問題を作れるようになることを目標にすれば今より勉強が得意になる可能性を示唆したようだ。

知りたいことと考えたいこと、勉強と研究

T「例えば,この本を読んだ後何を考えたいのかって具体的に何かあるん?」

僕「哲学という学問がわからないから知りたい」

T「それは,知りたいであって,考えたいじゃなくない?言い方を変えると,答えるの載ってる本を探そうという行為であって,自分の頭で考える行為じゃなくない?」

僕「ないね」

T「もちろん,哲学を知りたいという興味を持つ事自体はすごくいいことだと思う.」

僕「考えたいことは、言葉が伝わる、伝わらない、ということ。伝わったとは何を持って伝わったと言えるか、とか」

T「それはこの本を読んでさらに具体的な問いになったって感じ?」

僕「言葉の意味は環境によって変わるし、無限に変わり得るという方向の見方に刺激をもらっただけで、問いそのものは具体的になっていない。ヒントにはこれからなるかもしれない、という感触程度。」

T「なるほどね.問いに対する,解答の切り口を一つ得たって感じなわけか.」

僕「うん、だから伝わったり伝わらなかったりするよね、そりゃ、という納得はある。でもまだ、自分の問いには少し遠い気がしてる。」

T「ほうほう.そこを深められたらいいね.」

T「ちょっと話を戻すけど,具体的な問いを考えるっていうのは,勉強というよりは研究かもしれない.でも,頭のいい人は「勉強」と「研究」をうまく走らせられるんだよね.」

僕「勉強と研究の違い、言えない」

T「だから,この本を読んだときに「勉強」だけに偏重させてちゃうまくいかないだろって思った.」

T「Twitterでみたいいなと思った言葉は.勉強は既にあるものを自分の中に再構築すること,研究はまだ知らないものを自分が新しく作り出すこと、だったかな.」

僕「(自分にとって)まだ知らないものは、研究でも勉強でもありえてしまう?いわゆる新規性が絶対?世の中にとってか、自分にとってかで、線を引ける?」

T「俺が線を引くなら,勉強とそれ以外になると思う.勉強は本を含め答えをベースに理解する行為だと思っている。知らないものを,自分で考えるのは一種研究だと思う。他の人から成果としては認められないかもしれないけど」

僕「なるほど、行為ベースね」

T「うん」

僕「知るか、考えるか?(めっちゃ雑にいうと)」

T「そうね」

僕「どっちも好きだよ」

T「頭がいい人は,考えるための問題がうまい印象がある.話を循環させちゃったけど,(僕が)頭の良さみたいなものにコンプレックスを感じるなら,問題を作ってみてはいかがかと.」

僕「知ることはできる、考えることはできる、うまい問題を作ることができるかというと、??となるな。何だろう」

T「それは問題を作る能力だよ.鍛えるべきだと思う.」

T「俺が考えるんだったら,言葉 が全て同じ意味なら,必ず伝わるはずだ.でも伝わらないということは言葉には揺れが有る.一方でこの本は言葉自体に共通の意味,言語らしさ?みたいなものがあるとも言っていて、それは複数の環境を体験することで見えると言ってる.じゃあ.自分の気になる世界で,例えば自分の会社の中の常識,IT系の勉強会に来る意識高い系のエンジニアの常識,それらを比較して共通になる言葉や意味って何だろう?とかかな?」

僕「問題にするまで考え尽くせてないのかもね」

T「そうかもしれない.」

僕「さっきの例で言う飲み会のネタのくだりというか。面白いとまでは思うんだけど、考え尽くされた問題になるまで考えられてない。 まったく全部がそこで止まってるわけでもないと思うけど、そういうところは多いと思う。」

T「それが研究の第一歩だし,自分で深く考えるようになる第一歩だと思ってる.俺も全部をわかってるわけじゃないし,参考にできる範囲でやってくれたらって思う」

物事を知る、考える、勉強する。。。そういう行為は大きく、すでにあるものを自分が理解する(再構築する)=勉強と、知らないものを(自分で考えることによって)あらたに作り出す。そのためには自らなぜ?を繰り返して問題設定をする必要がある。

勉強と研究が説明できなかったように、両者を意識的に分けられていなかった。

僕は考えることが好きなはず。だとすれば、問題設定ができるまでに考えを尽くせていないのか?となり、そうして考えるとは何か?という闇にハマっていく。(笑)

深く考える

T「深く考えるってさ,具体的にどういう行為だと思う?」

僕「それがわからない戸惑いやぞ(笑)」

T「これに関しては(勉強の哲学で出てくる)アイロニーだと思ってて。例えば、第1段階はA→Bっていう関係を見つける、第2段階はAを含むさまざまなものとBを含むさまざまなものをの関係を見つける.それの繰り返しなのかなって思う.」

僕「それに気づけるとすっごい気持ちいいのよねぇ」

T「そうだよね.で,もちろん全然気づけないことが多い.」

僕「多い」

T「でも,そういうのを繰り返しながら第2段階にどうやって至るのかを試行錯誤するのが深く考える行為で一番大事だと思う」

僕「考えたいことを考える、ことにまだ慣れてないように思う。ご飯を食べたいように、ギターを弾きたいようにそうあれたらな」

T「慣れですぜ。1年ぐらいすれば慣れてくるよ.きっと」

僕「この1年で慣れるとする。意識的に考える時間をとりたいなとは、根拠なく思っていたんだ。」

僕「まだ、書くこと、アウトプットすることと、考えることがうまく分離できてない気がする」

T「それは俺も全然できないけど(笑)アウトプットは未来への投資だと思って作ってるかな。考えること,及び,消化することがメインだけど,いつか忘れるからその時のためにアウトプットを作るイメージ。」

僕「考えることの、考えた!ということがわかってないから混乱している」

T「なるほど.考えるはどういう行為なんだろうね.わかってしまえば簡単なものを,試行錯誤して見つける行為?迷路でゴールを見つけるようなものかな?」

僕「考えたいと思いつつ、何をすれば考えたといえるかがわかってないから、自分が考えていることに自信が持ててない」

僕「言葉にできた!(考えられてる?)」

T「考えるって言葉は曖昧だからな.結果も伴わないように使われるから考えたのかどうか判断しづらいし.」

僕「考えるって言葉は曖昧。考えるって行為は曖昧か、あるいは行為であるなら曖昧ではないか」

T「行為として明確にできてるなら曖昧じゃないかもね.」

わかってしまえば簡単なものを,試行錯誤して見つける行為? 迷路でゴールを見つけるようなものかな?

僕「これはわりと腑に落ちてる」

T「お,ありがとう.」

僕「考えることを考える」

T「メタ的ですね.こういうことを話してると会社休みたくなるよね.」

僕「会社休んで考えることを考えたいね。考えないで考えないでいる会社にいるより」

T「そうね.考えてもどうしようもなくて,こなしてる会社よりかな」

僕「話戻るけど、やっぱり書くことを通じて考えたい。補助輪みたいなもんだ。一時期より書く量減ってるので、またふやそう。」

T「うむうむ.俺は手書きとPCとホワイトボードをどう有効活用するか考えたいな.」

僕「のipad proもあるしね」

T「ホワイトボードを前にしゃべりながら解説するといろんなアイディアが降ってきて,答えが目の前にあるとそれを写経してしまって何も考えてないんだなって感じる」

僕「降って来て、それを表すのは、考えが意識的なところから離れてるだけで、考えてると言える気がするよ(また混乱)

僕「考えることを考える夜であった」

T「wwwwいいね」

おわりに

考えることを考えて会社を休みたくなった僕らであった。

思ったのは、「なぜ自分は勉強が下手だと思う?」と僕自身の発言へ問いかけるところから話をはじめるアプローチが上手だなと思いました。だって「ほんと勉強下手だよねいったいどんな勉強方法とってるんだい?」などと言われると(自分で言ってるとはいえ)「はぁ」ってなるわけで、相手に言わせるって大事だなと思いました。

主題としては「問題設定をする」(あるいは、問題設定ができるまで、考える、それも深く)ことをおすすめするよという内容だった。まぁこれでもよく「酒と食べ物の合うって何!?」とか「恋愛の好きと友情の好きに区別はない(持論)」とかよく同期氏に展開して突きあわせたりしてるんだけど(笑)もっともっと問題の数を増やしたい。

まだ具体的に「考える」こと「問題設定する」ことに対して、どうなれば達成なのか、これから僕はどう動けばいいのか、具体的には分からないけど(そもそも考えることや勉強することに終わりはないのでした)今回考えることを考えた、勉強することを考えたことは僕に大きな刺激をもたらし、実際に行動も変化しています。

いつもいつも仕事のこと、日常のこと、キャリアのこと、悩んだりするごとに真面目に、冷静に話を聞いてくれて、丁寧に言葉を届けてくれてありがとう。感謝します。

*1:彼は数学科卒で今もバリバリ数学やってる数学マンである

"すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論" を読んだ

はじめに

読んだ。

学校教育が国民に「我慢こそ美徳」を強いて、自ら行動せずブレーキを踏む教育、本書で言う「洗脳」をしてきた。その結果「したいことがあるけどできない」人間が増えている。それは全て学校の洗脳のせいだから今からでも自分のやりたいことだけをやりなさい。

これが本書の主張だと思う。

内容自体はそんなもんなんだけど、ちょっと自分とも照らし合わせて考えたいのでブログを書くことにした。

学校教育と「常識」を考える

ここで簡単に「知識」と「常識」の違いについて触れておこう。(略)常識とは「解釈」である。主観の入りまくった、その時代、その国、その組織でしか通用しない決まりごと。それが常識である。(p20)

そして学校は常識を植え付ける場所である、それが洗脳であるという主張だ。

僕はこの文章を読んで、学校が常識を植え付けるとともに国民をふにゃふにゃにして国家最高仲間最高にする、従順に何でも目上のひとに従うようにする、そういう意味で洗脳している、とまでは思わない。

ただ、「常識」という言葉については中学時代、高校時代にひどく疑ったことをよく覚えているのでここで語りたい。

「常識で考えろ」と怒られたことがあった。そのときは、何も言ってないなと思ったし、それが我々が知るべきことだとしたら、それを教えるのが教員なんじゃないの、教員の役目でないとしたら家庭なんじゃないの、そもそも常識ってなんだよ、(世の)常が識別している事柄ってなんだよ、誰が決めるんだ、誰が定義するんだ、どうやって決めるんだ、どうやって知るんだ、って。高校時代かな。怒りとともに考えた覚えがあります。

常識という言葉が僕に通じなかったし、常識という言葉に猛烈に違和感を抱いた。この感覚は今でもある。

常識を教えるときに、常識という言葉を使ってはいけないと僕は思う。

常識がなくても(あえて常識という言葉を使っています)いいとは僕も思わない。ここで使う常識は、おおよそ「マナー」に分類されるかもしれないし、「教養」と語られるかもしれない。「常識」は概念であり、おそらく都合良くしか使われていない。「常識がない!」はもう1歩踏み込んで言わないと「俺が不愉快」「みんなやってるからやれ」「いいから言うことを聞け」と言っているようにしか思えない。

「常識」は「常識」という言葉以外で説明することができるんじゃないか。マナー、法律、文化、、、そこまで落とし込めば「そうする必要性はないけれど、この社会ではこうするひとが大半で、特に何も考えずにそうしている。君がどうしても受け入れられないならそれは構わないけれど、いったん習ってみてはどうだろうか」という風に言えるだろうし、おそらく常識を課すシーンってマナーあるいは犯罪にあたるシーンなんじゃないだろうか。

「ひとが話しているときに遮る」ことを「常識がない」と言うこともできるだろうし、送ったメールに返事をしないひとに「常識がない」と言うこともできるだろう。だけどそれを常識として相手を攻めてどうなるんだろうか。

そもそも文化的に解釈が異なったりする、すなわち生活してきた社会の習慣の積み重ねが「常識」にすぎず、先の引用にある通り時代によって変わるもので、常識そのものは中身がない。

だから、「ウチの後輩常識なくてさぁ〜」という話には「どこがどうダメなの?」「そのダメなところを教えてあげなきゃ」「どうしても無理なら切るしか」の3つにしかならない。まぁ、常識を攻撃する意味は、まったくないのだ。常識がないと感じるそのポイント、あるいは共通する考え方を教えてあげないとな、と思う。

結論として、僕は学校が常識という名の「従順」を植え付けるために学校があるとまでは思わない(これは現場の教員の話も聞いてみたい)が、常識という言葉は嫌いだし、疑うべきだという点では同意しました。

学びとは没頭である

「学び」を楽しんでる人は違う。没頭している人にとっては、正解が見つからないことも、自ら動かなければ取り組むべき課題が見つからないことも、没頭する対象がある限りすべては「楽しい」ことだ。だから、彼は暗中模索を繰り返す。つまり没頭は、人を決して立ち止まらせないのだ (p89)

この章で著者は「やりたいことが見つからない」「やってはみたけど没頭できない」「収益化できない」というひとに対して、自分がやりたいことをやれと返していて、イマイチ本質的な回答になっていない、あるいは根拠に乏しいと感じる。

自身のインターネット黎明期に遊んだ経験が、楽しいと遊んだ経験があとに生きた、だから売れる売れない稼げる稼げない考えずとにかく没頭するんだ、という意見は、正しいと思う。しかし、「楽しいことやるんだよ」が、洗脳を浴びてきた「でも。。。」のひとに届くかというと、これでは届かないと思う。

僕自身はやりたいことを自覚的にやっているものの、真にやりたいこと - かどうかは自分で決めるので何とも言い難いが - というより、大きな変更を伴うことは行ってきていない。教育を受けてきた通りの、義務教育、大学、就職というコースを選んでいるので、おそらく対象読者であると思う。

そもそも、好きなことがないひとは、本当に好きなことがないのだろうか。

好きなことを探す力、何かにワクワクする感覚、好き・やりたいを自覚する力、もしそれそのものが低下しているとすれば。それがブレーキを踏んだ状態であり、本書でいう学校教育の洗脳を受けた状態だとしたら、やはり前提を文章で説いたとしても、「やりたいことをやれ」は効果的ではない。

具体的に落とすならば、「考えるより先に行動する」「publicな場所におく(公開する)」「考えたことを文章化する」あたりを届けてみたい。

行動できるならそれはもちろんしたほうがいいし、ひとの目に触れるということは、ひとの目に触れられる状態に具現化するということだし、3つめはまさに具現化すること。

おそらくやりたいことをやるにも訓練が必要なんだと思う。

自分自身が何をやりたいかなんて、なかなかわかりはしない。

そのための基礎トレーニングとして、僕なら考えたことを文章化することを勧める。文章化すれば、その時その瞬間において、そしてそのコミュニティにおいて、1つの事実として絶対化される。(解釈の余地は当然残りつつも)考えたことがある言葉として絶対化された場合、それを仮説として次の考えにいける、あるいはそれは考え終わったこととして、次の考えにいける。このプロセスが、次々に考えることができ、その結果自分が真にやりたいことを見つける確率をあげるのだと思う。

自分1人で、じっくり考える。よく、自分と向き合う、なんて言うけれど、考えていることを考える。文章にしながら考える。あれでもない、これでもない、ちょっと違うかも、うまく言えてないかも、それでもいい、そのときその瞬間の言葉として絶対化すれば、あるいは別の言葉で言えば現時点での言葉として「有限化」すれば、少しずつ整理されていくはず。

このプロセスを取らずに単にぼんやりと「ああ会社やめたい」「ああ学校行きたくない」「ああ有名になりたい」と考えるだけじゃ、何も変わりはしないと思う。

僕なら、堀江さんに変わって、自分でブレーキを踏んでいるひとには上記のことを伝えたいと思った。

おわりに

思いの外長くなってしいまった。本書の主張の批判や、解釈というよりは、本書の内容をヒントに、自分の考えを深める記事にした。

僕も常にうつりかわるやりたいことをどう捕まえて、どう自分のものにして、どう吐き出すか常に模索中で、上の言葉は自分の経験から書いた。最近あまり文章を書いたり、じっくり考え抜く時間が減ってきたので、また意識的に増やしていこうと思う。

「勉強の哲学 来たるべきバカのために」を読んだ

はじめに

読んだ。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

実に面白かった。本書で学んだ勉強の仕方を、このブログでも習ってみようと思う。

読み返しながら、自分でもう一度味わって、自分の感想を言うような内容なので、本そのものの紹介にはならないかもしれないし、読んでない人が見てもあまり面白くないかもしれません。

第1章 勉強と言語 言語偏重の人になる

勉強とはかつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。(p20)

勉強は自己破壊であり、ノリが悪くなることである。それは「コード」と呼ばれる、環境特有の「こうするもんだ」から離れて、考えるから、その環境から自由になろうとするからである。

環境特有の、コードに無意識レベルで支配されているという実感はもちろん普段からなくて、でも確かに、それはあると確かに実感できる。環境が変わると、のちに出てくるように同じ言葉でも通じなかったり、例えば業界特有の言い回しがあったりする。あれもコードだ。

言葉の意味は環境のコードのなかにある (p33)

僕はこれまで言葉が持つ意味は何かを、とことん考えてきた。言葉が伝わったり、伝わらなかったりするのはなぜか。言葉には不思議がある。そこに言葉がコードに支配されているという観点はこれまでなかった。それは当然で、言葉の意味はコードによって変わる。あるいは、別のコードに支配されている人間同士であれば当然解釈は異なり、伝わったり伝わらなかったりするのだ。

もっと言えば、言葉はただのツールで、言葉の持つ意味以外をいかにして伝えるかが大事だとも思っていた。伝えるために、言葉は道具として存在するが、絶対に完全にはならない。完全に言い尽くすことはできない。だけど丁寧に言葉を選ぶ。わかったようなつもりに、いかに近づけるか。本書とは方向は違うが、僕は伝えること、伝えたいこと、そのツールとしての言葉に、昔から興味があった。そういった点で、コードに支配される言葉という観点は非常に面白い。

言語それ自体は環境から分離している。言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。(p36)

言語の言語的性質は所詮コードによる。言語から言語的性質(目的的な、コードに支配された意味)を剥ぎ取ったあとに残る、本書でいう「言語それ自体」「器官なき言語」が存在する。究極的に言語はいつでもコードに支配された言語的意味から解放されて、バーチャルな言語世界に生きることができる。言語の言語的意味ばかりに執着して、僕はやはりコードに支配されていました。

慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」へ移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、「言語をそれ自体として操作する意識」へと発展させる必要がある (p52)

言語の言語的な意味をいったんバラし、本書でいう言語の玩具的に捉える、この意識こそが重要だと説いていますね。

新たな環境(コード)に入った時に違和感は、確かに感じます。そこに集中したことは今までなかった。

僕は「言葉遊び」が好きだと、よく仲間に言われます。事実、そうだと思う。 それは本書で言う言語の玩具的使用だったし、後に出てくる享楽的快楽に基づいて、言語を操っていたのだと、まさに思います。

言語の言語的意味を一旦バラし、快楽と、言語的意味から一見離れた言葉を組み合わせて、あらたな「ノリ」として言葉を発し、おそらく僕自身のコードとして仲間に伝染させていく、支配していく、そういうシーンがあります。このように説明できるとは、まさか思わなかった。

第2章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス

この章ではまず、端的に要旨を整理してみる。

  • 環境のコードは常に不確定であり、揺らいでいる(p67)
  • アイロニー - 超コード化を進めていくと、コード不在の状態に近づいていく(p86)
  • アイロニーは、「言語なき現実のナンセンス」へと突き進んでいく(p88)
  • ユーモア - コードの不確定性を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる(p98)
  • ユーモアの極限は「意味飽和のナンセンス」(p99)
  • 縮減的ユーモアでは、話を細部に絞るだけではなく、意味の次元自体を縮減する(p105)
  • 縮減的ユーモアの極限は「形態のナンセンス」(p108)
  • 個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば「仮固定」を可能にする - 「形態の享楽によるユーモアの切断」(p112)
  • 非意味的形態としての言語が刻み込まれた時の痛みを享楽するというのが、言語を使う人間にとって、根本的なマゾヒズムである(p117)

これは後述する読書ノートのようなもので、引用しつつ引用と自分の考えを別にしないといけない、ということで出展を書いてみています。(とはいえ、引用部分以外でも本書の言葉に支配されたように語ってしまっていて、よくないなぁとは思います)

この章は本書にとって核な部分だと思います。個人的には、ユーモアの拡張によって言語が無限に広がっていくことはないと言っていて、それは確かにそうなんですが、それが享楽的こだわりによって仮固定されるというのは「そういう説もあるかぁ」ぐらいで、あまりしっくりは来ていません。

単純に引っ越すコード、それがリアルであろうがバーチャルであろうが、意味の拡張は個々人の人生分しか広がりようがない。それを経験を踏まえた享楽的こだわりによって仮固定と言っているのはわかる。アイロニカルな例でもそうだが、原理的に極限は考えられるが、実際には起こりえない。

後に出てくる有限化を、どうやって有限にするかを、考えたい。

第3章 決断ではなく中断

僕が言いたいことはシンプルです- 「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。(p136)

勉強はきりがない、それはアイロニカルに追求していっても、ユーモアに目移りしていったとしても、終わり到達することはなく、全て学んだという状態に達することも決してないということ。

ではどうやって勉強を有限化すればいいのか。何の中で比較し、選択すればいいのか。それは信頼できる情報か、自分の享楽的こだわりで選ぶことが考えられる。

自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。(p140

そして決断について、気をつけよと主張しています。

絶対的な根拠はないのだ、だから無根拠が絶対なのだ。だから - ここで起きる論理の飛躍に注意してください - 、無根拠に決めることが、最も根拠づけられたことなのである。次のイコールが成り立つ、絶対的な無根拠=絶対的な根拠

極限までアイロニーを繰り返した末の「俺が決めたんだから決めたんだ」は、根拠がないことが根拠になっているということ。

僕は決断主義でした。

正確には、決断主義的に、中断していた。信頼できる情報から、比較するんですが、それは享楽的こだわりに支えられていたかもしれませんが、決断し、納得し、納得したことを根拠にし、振り返らないような生き方をしてきました。

本書の立場は、無根拠を根拠にすることが他者の絶対服従であり、それはコードや環境から自由になろうということと反する、ということでした。

一方で、「中断」と(無根拠を根拠とする)決断はなかなか紙一重だと感じます。

ではどうやって中断が起こるのか、比較を続けた上での、享楽的こだわりによる仮固定のような、中断の仕方が起こりうるのか。

自分自身が持つ「無意味なこだわり」によって選択し続ける。その無意味なこだわりは実は無意味でなく、自分自身の過去の、享楽的こだわりの連続によって生まれたものだ、ということはわかる。

無意味なこだわり=享楽的こだわりによって、比較時の足場を仮固定する。ではどうやって無意味なこだわりを自分自身で何度も生成することができるのか?それには自分が過去にどういう出来事があって今のこだわりが生まれたかに意識的である必要があるとし、自身の欲望年表を作ることを勧めている。

そうやって自分の享楽的こだわりを分析し、どんどん移り変わって、どんどん別のバカになりなさい。どんどん別のこだわりを持ち、比較を続け、勉強を続けなさい、そう主張している。

ここでこの章は終わってしまうんだけど、欲望年表は別の機会に作ってみようと思う。自分のこだわりはここ数年の中でもかなり変化しているように感じるので、分析したい。

そして自分の決断が、中断であるのか、自分で言えるかが、わからない。

第4章 勉強を有限化する事実

ここでついに実践的な技術について触れます。

新しいことを勉強することは、専門分野に入ることです。

「まとも」な本を読むことが、勉強の基本である(p171)

この章は唯一具体的なテクニックを述べているので、理解はしやすい。

  • 入門書から入る
  • 入門書は複数を比較する
  • 教師は有限化の装置である
  • 専門書の信頼性 - 知的な相互信頼の空間から信頼を受けているか(p188)

ここも入門書、専門書、基本書の選び方は、やはり信頼ある(比較を続けている)ひとに従うことを勧めている。

僕もよく、新しいことを学ぶときはまず本屋にいく。そこでもまた、複数の入門書を見て、リファレンス的な教科書を買って、実際にやってみて、考えてみて、書いてみて、あきらめたり、範囲を限定したり、わからない点は深く考えないようにして - それこそ「有限化」して、やっていたので、おおよそ本書の言う通りの勉強法を取っていたことになる。もちろん選択した本が信頼に値するか、までは比較は十分でなかったかもしれないし、それこそ決断主義的に決めていたかもしれない。

僕は勉強はあまりうまくないと思っているので、選ぶものが悪いのか、有限化が下手なのか、それともそのコードのテクストの読み取り方が下手なのか、どこが足りてないのかはわからない。ただ、少なくとも勉強は好きで、いろんなことに目移り的に興味を持つ性格に(幸運にも)あるので、これからも勉強は続けたい。そう思えた本だ。

その他、この投稿では残念ながら徹底はできていないが、

どこまでが他人が考えたことで、どこからが自分の考えなのかをはっきり区別して意識しなければならない。(p199)

出展を明らかにする。研究・学問では当たり前のことですよね。それも意識的にできていなかったですね。

その他、読んだときにメモを箇条書きで取って結びつけたり、kindleだとハイライトが楽なんですけど、紙の本だとつい億劫になって、というか集中したくて読みながらメモ取りたくないんですけど、ちょっとやってみます。

おわりに

僕はこの本で勉強の何を学んだのか。

  • 言語は「こういうもんだ」という環境のコードによって支配され、言語の意味的意味はコードに依存するという考えに納得した
  • 深く勉強するためには、アイロニーにもユーモアにも無限には行けず、おそらく自分の享楽的快楽に基づく「こだわり」によって有限化される ということにも納得した

一方で、

  • 勉強をし続けることと享楽的こだわりの変化の行く末、果ては何だ?(いや、だから、勉強の完成はないんだ)
  • そうであれば、本書の主張は?

とループしてしまった。(笑)

本当にこれが勉強の入り口なんだろうと思う。勉強には終わりがないからこそ、勉強をいかに有限化し、こだわりをもって変わり続けることができる。「それこそが究極の享楽的快楽だ」なのかもしれないし、「享楽的快楽」があるからこそ、勉強ができる、なのかもしれない。それはどちらだろうな。どちらでもあるかもしれない。

いずれにせよ、自分がこれまでぼんやりと感じていたこと、ぼんやりと興味があったこと、興味があったことを具現化してくれた、さらなる一歩に導いてくれたこの本を読めてよかった。著者の千葉先生に感謝。